辛い辛い、過去のこと



生きていくために必要なこと



 何が起きたのかが全く分からなかった。
目を開けたらそこは白黒の世界で。手にはぬるっとした黒い液体。それは血であったはずだ。鮮血が黒にしか見えず、余計に気持ち悪かった。
そして目の前に横たわる人。
いや、人であるかも分からない。だが生きていることは分かった。一定のテンポで呼吸をしている。―――自分と同じように。

「俺は、誰だ?」

 記憶がなかったわけではない。生まれたときから、たった数時間前までのことははっきり憶えている。いや、子供のときの記憶は定かではないが。しかし目覚める直前の、気を失う前の記憶は曖昧だった。
―――自分は確か、人体錬成を行ったのだ。
病気で死んだ弟を生き返らせようとした。だけど失敗だったのだ。
 ヴィリルは重い身体を引きずって、鏡の前へと立つ。そこには自分の姿が映っている。だが目に映る自分には色が付いていない。白と、黒と、灰色と。

「ハハ…ハハハハハ…」

 笑うしかなかった。けれどこの姿を見た瞬間、何かがわかった気がした。

「俺は、持っていかれたんだ」

 そう、持っていかれた。色彩というものを。
 真理がわかった気がしたが、今起きている出来事の把握が出来ない。練成陣の上に横たわっている人間は一体誰なんだ?弟を練成したはずであったが、そこに横たわる人間は弟ではない。
 弟は茶の髪を持っていた。生まれてから死ぬまでずっと茶の髪であった。今目の前にいる人間が持つのは黒い髪だ。…ああ、自分に茶色の認識ができないだけか。ではこれは弟なのか。

「…気持ちわる…」

 それが、素直な気持ちだった。他に当てはまる言葉がないぐらいに、気持ちが悪いと感じられた。
 そしてこの数日後に国家資格を取ることになる。真理を知ったその日から、錬成陣なしでの錬成は可能になり、当時最年少の国家錬金術師となっていた。




「って訳。わかったか?」

 ヴィリルのその一言で、二人は現実に戻される。

「だから俺には色彩感覚がない。右目しか使えない上に色さえ認識できないんだ。もう慣れたけどね」

「に…兄さん…」

「何を言い出すかと思えば…」

 エドワードは言葉が思いつかなかった。予想も出来なかった言葉。いや、たとえ予想していたとしても、その予想は決して当たらなかっただろう。

「お前もアレを見たのか…?」

「そういうことになるな」

 頭の中に、沢山の情報を送り込まれた。たった一瞬の出来事だった。
求めていた全てのことが、その一瞬で分かったのだ。だがもう一度人体練成を行おうとは思わなかった。真理を知ったからこそ、もう二度と同じ真似をしようとは思わなかったのだ。
 ヴィリルは再び天井を見上げた。そこには灰色の壁がある。でもヴィリルには灰色に見えるだけで、本当は真っ白なのかもしれない。

「ロイはお前達にこのことを知ってもらいたかったんだろうな。俺の存在を、俺の過去を。同罪を犯したものがいるということを」

 真実は時として残酷なものだ。例え頭が良くたって、五体満足だって、勝てないものが存在する。

 人間には決して勝てないものがある。

 ―――それは、死。

 生きているものに、死を下してはいけない。
 死んでいるものに、命を与えてはいけない。

 それが世の中の法則。