「好きです」 そのたった一言が言えなかった。 Guarendo 二日に一回、買い物に来るお客さん。 有名なスポーツメーカーのロゴがワンポイントで付いている白いTシャツに、白い三本線の入った黒いジャージ。今は二月の寒い夜なので、同じく袖に三本線の入った黒い長袖ジャージを羽織っている。茶色い髪はいつも無造作にあちこちが跳ねていて、いつも明るく声を掛けてくれる。 「新野ちゃんこんばんは」 スポーツ飲料水のペットボトルをレジに置き、財布から小銭を出しながら言った。 「今日もお疲れ様です、永田さん」 永田伊澄(ながたいすみ)は、新野咲(にいのさき)がアルバイトをしているコンビニの常連客であった。いつもスポーツ飲料水だけを購入する爽やかな好青年である。 「ここに来るの、二週間ぶりじゃないですか?」 「ちょっと最近忙しくてさ。走る暇さえなくって」 永田は夜、ランニングをするのが日課、らしい。らしいと言うのは、新野自身は彼が走っている姿を見たことが無いからだ。彼曰く、ランニングをしていて、丁度水分が欲しいと思う地点にこのコンビニがあり、ここで水分補給としてスポーツ飲料水を買い、そしてまたランニングをする、とのことである。たまたま彼がコンビニに立ち寄る時間と、新野がアルバイトしている時間とが重なるため、気付いたらお互いに名前を覚えるほどの仲になっていた。 「新野ちゃんは相変わらずこの時間だね」 買ったばかりの冷たい飲料水を飲む。喉が渇いていたため、飲むスピードは自然と早まる。 「この時間、お客さんあんまり来ないですから。時給も高くてお得です」 新野は所謂、苦学生であった。両親は小さい頃に他界し、親戚の家で育てられた。ありがちではあるが、親戚は新野のことを快く思っていなかった。だから大学生になった時、親戚の家を出て、一人暮らしを始めた。ここでのコンビニのアルバイトも、学費と生活費を稼ぐためのものである。それも時給が上がる深夜に、だ。学業とアルバイトの両立は決して楽なものではないが、この暮らしも結構気に入っていた。 「そうだよなあ。俺、あんまり他のお客さん見たことないよ」 だからこうして新野ちゃんとお話出来てるんだけど、と笑いながら付け加える。 永田が来る時間は、決して夜遅くというわけではなかった。立地的に駅から離れているこのコンビニは、夜六時から七時ごろの帰宅ラッシュが過ぎると、ぱったりと客足が途絶える。その後の時間帯は、一時間に一人か二人の時も少なくはない。永田は大体九時ごろに訪れるので、他のお客が来店していることはあまりなかった。 「よし!それじゃ、行くか!」 飲み終わったペットボトルを新野に預け、三回ほどその場で屈伸をした。身体に水分も戻り、体力も回復した。 「残りも頑張ってください」 「新野ちゃんもバイト頑張れ!」 そう言って、永田はコンビニから出て行った。自動ドアが閉まる前に、一度だけレジの方に振り向き右手を上げた。新野もそれに答えて右手をあげた。「また来るよ」といつもと変わらない笑顔を見せ、そして走り去っていった。 「…がんばろっと」 新野は一人、呟いた。 ◇
新野と永田のこの関係が出来たのは、二ヶ月前であった。新野は大学生になる直前の一ヶ月前、つまり一年前の三月からコンビニでアルバイトを始めた。その九ヵ月後の十二月、永田に初めて出会った。最初はただの客と店員の関係であったが、一ヶ月経った時、永田に話しかけられた。「いつもこの時間にいるよね」と。 もちろん新野の方も永田のことは知っていた。先ほども説明した通り、夜は客足が途絶える。そのため、毎日のように来る客のことは、嫌でも覚えてしまう。永田もその例に洩れなかった。さらに新野は十九歳、永田は二十歳ということで、すぐに意気投合した。 だが新野は、永田が何をしている人なのか、全く知らなかった。 新野が大学生であることを永田は知っているが、永田が学生なのかも仕事をしているのかも、新野は知らない。プライベートのことはあまり話したくないようで、その話をすると顔を伏せてしまう。だから自然とプライベートの質問はしないようにしていた。 「でも気になっちゃうってわけか」 新野の友人である島川しおり(しまかわしおり)が、口角を上げながらニヤニヤと笑う。 「べ、別にそう言う訳じゃ!」 「あー赤くなってる!」 今度はアハハと声を上げて笑った。対する新野は頬をほのかに赤くしている。 しかし、気になっているのは本当であった。それが恋愛感情であるかは別であるが。 「まあねえ…。話聞くだけでも、確かに気になる」 「私の話は楽しそうに聞いてくれるんだけどね」 あくまで、新野の話はだ。別に一方的に新野が自分の事を話しているわけではなく、永田の質問に新野が答えることも多い。だが、逆は一切無い。自分に関しての話は全くしなかった。かろうじて名前と、年齢と、コンビニに来る理由は聞き出せたが。 「会ってみたいなあ噂の彼に!家が逆方向じゃなければ行ったのに!」 「あはははは…」 新野と島川の家は、大学を挟んで逆方向であった。島川は実家のため、大学からは二時間以上掛けて通っている。新野の家は大学から二十分ほど電車で行ったところにある。そのため、もし島川が永田に会おうと思えば、帰宅するのは日付変わるぐらいになってしまう。普通の大学生ならばそれぐらい構わないかもしれないが、島川は一人娘で厳しい両親の元で育ったため、門限が夜十一時と決まっていた。もちろん友人宅に泊まるのも許されていない。 「まあ…咲がちゃんと、異性に興味を持ってくれて嬉しいな」 「え?」 「だって咲って、大学とコンビニと家の往復しかしてないじゃん? サークルにも入ってないから男友達いないし…そういうのに興味ないのかと思ってた。だから私としては、咲からコイバナ聞けて嬉しいなって」 先ほどまでの悪戯な笑顔とは違い、穏やかな笑顔を新野に向けた。 「…だからコイバナじゃないって!」 「否定すればするほど怪しく見える」 確かにこういう話をしたのは初めてだな、と思った。 そして彼の話をしている自分が、自然と笑顔になっている。そう自覚したのも島川に突っ込まれたから、なんて。でも悪い気はしなかった。 今日は永田さん来るかな、と毎日のように考えている自分がいるのも、その時に気付いた。 ◇
しかしその気持ちとは裏腹に、あの日以来、一週間経っても永田は姿を現さなかった。また来ると言っていた言葉は偽りであったのかと思ってしまう。前回来たのも二週間ぶりであったのだ。また二週間経ってから、来るのかもしれない。 仕事は何をしているのか知らない。一個しか違わないのだから、まだ学生なのかもしれない。社会人なら仕事が忙しいのかもしれないし、学生なら研究などがあって大変な時期なのかもしれない。 ―――本当に何も知らないんだな。 連絡先すらも知らない。知っているのは『永田』という苗字と、『二十歳』ということ。それとランニングが趣味で、いつも同じスポーツ飲料水を買っていく。それだけ。 「…永田さん」 そう呟いても、彼が現れてくれるわけではない。でもあの明るい笑顔を求めている自分が居た。 (好きという感情に気付かなければよかった) 気付かなければ、こんな寂しい気持ちにはならなかったのに。 新野は泣きたい気持ちを抑え、永田の存在を頭から消そうとした。しかし新野が思っているよりも、永田の存在は新野の頭に根付いているようで、なかなか頭から離れることは無かった。 To be continued... |