好きなことをしたい。 それは誰にでもある願望。 嫌いだからやらない。 それは誰にでもある逃亡。 I want to... 授業の終わりを告げるチャイムが無機質に鳴った。 太陽が高く昇る、真夏。エアコンのない普通教室は、蒸し風呂のような暑さを保っている。窓を開けてもそれが改善されることはなかった。むしろ熱で温められた空気が、身体にまとわりつくようで気持ち悪い。 「おい真宮!授業終わったぞ!!」 クラスメイトが話しかけるが、返事はない。六時間目の社会の授業、さらに言うと、最も眠くなる歴史の授業である。多くの生徒は六時間目という時間と興味のなさ、そして暑さによって弱った身体が、睡魔に負けていた。 その例に漏れず、真宮千歳(まみやちとせ)は六時間目の開始十分にはすでに眠っていた。 「そのうち起きんじゃねえの?」 「そうだな。まあ死にはしないだろうから先、帰るか」 クラスメイトは千歳の安眠を邪魔するわけでもなく――むしろ面倒だったのだが――起こさずに教室を出て行った。 千歳も起きる気配なんて見せなかった。 ◇
そして夕方。下校時刻はすでに過ぎており、学校に残っているのは部活動で残る生徒のみであるはずだった。 「…ん…」 誰にも邪魔されることなく、今まで眠っていた千歳は、窓から差し込む日の光によって目覚めた。 「真宮君、やっと起きたんだ」 声の先を見てみると、そこには同じクラスでもあまり話したこともない椎名夏海(しいななつみ)の姿があった。 夏海はそれだけ言って、また背を向けた。どうやら校庭で活動している部活を見ているらしい。 「なに見てんの?」 「サッカー部、かな」 「好きなやつでもいるんだろ〜?」 「ご想像にお任せします」 千歳はまだ重い身体を半ば引きずらしながら、夏海の横に立った。彼女の言うとおり、校庭ではサッカー部が走っている。うちの学校のサッカー部は都大会常連校で、ユースに選ばれている奴もいた。 千歳は自然とボールを目で追っていた。それもかなり真剣に、だ。 同じクラスの奴がシュートを打つ。しかしそれは惜しくもゴールに嫌われ、バーの上を飛んでいった。 「…あ!あれくらい決めろよなー」 俺なら決められたのに。 小さく毒づくと、夏海にはその声が聞こえていたらしく、 「真宮君はサッカーやってるの?」 「へ?」 しまった、という顔を思わず出してしまった。 「あー…やってた、が正しいけど」 まだ頭がちゃんと働いてなかったらしい。思わぬ失態であった。高校に入って二年間、サッカーをやっていたことは隠し続けていた。隠していたというよりは、サッカーという存在を避けていた。 「怪我とかでやめちゃったの?」 「いや、俺に至っては健康…でもないか」 ハハハと乾いた笑いを返し、千歳はまたサッカーを見始めた。まだ未練が残っているんだなあと思いつつ。 「俺、十五分しか走れないんだ。ランニングで、十五分ほど」 十五分経ったら歩けないぐらいの激痛が自分を襲う。立っているのも辛く、鎮痛剤を打ってもらわないといけないぐらいの痛みだ。 サッカーは好きだけれど、自分がサッカーをやると、母親も父親も悲しんだ。千歳のサッカーに対する気持ちは両親とも知っている。しかし、千歳がサッカーをやって苦しんでいる姿を見るのは嫌だったはずだ。 「中二のときまでイタリアでプレイしてて…そこで交通事故あって足やっちゃってさ。手術をしても、もうサッカーは出来ないって言われて。だから日本に戻ってきた」 サッカー留学ではなかった。親の都合でのイタリア行きだ。 だからイタリアでのプレイは生半可な気持ちで出来るものではなかった。人一倍練習すれば、監督にもチームメイトにも認めてもらえると思った。 そして努力が認められて十番を背負うことになって。 だけどその期待に答えられずに日本に逃げ帰ってきた。 サッカーの神様に愛された少年は、他の神様には嫌われてしまったのだ。 「…ごめん。こんなこと椎名に話したって迷惑なだけだよな」 サッカーからは目線を外さずに言った。夏海がどんな顔をしているかは分からなかったが、なにか見てはいけないような気がした。むしろ自分が今どんな顔をしているか分からない。 「でもサッカーは好きなんだよね?」 視線は千歳に向けられていた。だけどそちらを見ることも、その質問に答えることも出来なかった。 だって夏海はきっと、その問いの答えを知っているのだから。 しばしの沈黙。校庭から聞こえる声だけが、聞こえた。 ピーという笛の音。それをきっかけに、千歳は背を向けて自身の机の横にかかっている鞄を取りにいった。そして夏海には何も言わずに教室から出て行ってしまう。 その後姿を静かに見守りながら、夏海はまたサッカーを見始めるのだった。 ◇
サッカーをしたいと言ったら、母さんは泣いた。 サッカーをやったら、父さんに怒られた。 サッカーをやめると言ったら、二人とも笑っていた。 だけど千歳は笑うことなんて出来なかった。 「千歳は普通に学校へ通って、普通に仕事すればいいの」 母さんも、父さんも、千歳をサッカーから離すことしか考えていなかった。 サッカーボールはもう家にない。 イタリアのクラブチームのユニフォーム。一度しか着ていない名前の入った十番のユニフォームが、たんすの奥に入っているだけ。 普通って何? 千歳にとっての普通がサッカーであった。 サッカーをすることが日常で、当たり前のことであった。 たとえ十五分でも、サッカーを出来る身体があるのに。どんなに足が痛くても、サッカーが出来るのなら痛みに耐えることが出来るのに。 四年間。もう四年間である。 意外にサッカーがない生活も出来たものだった。千歳はもうサッカーに関わることはないと思っていた。 今日、椎名夏海がサッカーを見ていなければ。真宮千歳が授業中に寝ることがなかったのならば。 再びサッカーに引き寄せられた運命こそが、真宮千歳がサッカーの神様に愛された証拠であった。 ◇
椎名夏海は一冊の雑誌を取り出した。四年前のサッカー雑誌である。 それは、U−14の特集記事。 その中で笑う今日、共にサッカーを見ながら喋ったクラスメイトの姿。 手の届かないような少年であった。イタリアでただ一人、日本人としてプレイをする千歳は。 高校に入学したとき、その少年が同じ高校であることには吃驚した。 クラブチームに所属する少年達の中には、国立を目指して高校サッカーを選ぶ者もいる。夏海は千歳もそのような部類に入るのかと思っていたが、千歳は部活に入らず、授業中も寝ていることの多い、普通の高校生であった。…授業中に寝るのは普通の高校生とは言えないだろうが。 事故のことも、怪我のことも、サッカーに関する雑誌などでも話題になっていなかった。所詮は中学ユースの話題だったのだろう。 「真宮君には私みたくなってほしくないのになあ…」 夏海は涙を流すことしか出来ないかのように、声もあげずに泣いていた。 ◇
次の日。何も変わらないようにみえた高校生活。 元からお互い喋ったりするほうではなかったので、昨日とはなんの変わりはなかった。変わらないはずだった。 しかしそれは千歳の机の中に入っていた一冊の本が入った袋によって変わった。 朝は気付かなかったが、五時間目に机にその袋が入っていることに気づく。 放課後、千歳が恐る恐る中身を取り出すと、そこにはとても記憶に残っている自分の姿。全盛期であった自分がチームメイトと共に肩を組み、笑って写っている。 千歳はそれをすぐさましまい、夏海のほうを見た。偶然なのか、必然なのかは分からないが、目が合う。そして彼女はじっとこちらを見つめてきた。 「椎名、ちょっといいか?」 犯人はすぐ分かる。千歳がサッカーをやっていたことを知っているのは、夏海だけのはずだ。 「嫌がらせか?」 雑誌を夏海に突きつけながら言った。 「真宮君はサッカーをやるべきだよ。真宮君ならまた上にいける」 「サッカーはもうやめたんだよ!」 怒りを夏海にぶつけた。そんなことをしても何にもならないとわかっていたのに。 その千歳の怒りにも動じずに、夏海は口を開く。 「真宮君は私の憧れだった。貴方のサッカーをやっている姿が好きだった。 同年代の子がイタリアでプレイしていて活躍していて、とても羨ましかった」 「…羨まし…かった…?」 「うん。私はサッカー出来ないから。やりたくても、出来ないから」 夏海の目からは涙が流れている。千歳に怒られて泣いているのではない。自分は千歳と違って、サッカーの神様に愛されなかったことを悔やんでいるのだ。 「身体が弱くて、運動は出来ないの。体育は男女別だから知らなくても当然だよ」 涙を拭いながら、続ける。 「サッカーはお兄ちゃんの影響で好きになったの。その雑誌も元はお兄ちゃんのなんだけど、U−14が載ってたから貰ったんだ」 と、最後は笑顔で言った。 千歳は何も言えなかった。早くこの場から逃げたい気分だった。 教室にはもう人がいなかったのが幸いだ。女の子を泣かした自分も、女の子に叱られている自分もかっこ悪い。 サッカーをやりたい。 その気持ちが自分の中にあるのは分かっている。 だけど自分はどうしたい? 両親が悲しむからサッカーをやらないのか。 いや、やりたかった。 例え十五分しか走ることが出来なくても。十五分だって走れるのなら。 サッカーがしたい。 「――サッカーがしたい」 思わず口に出してしまう。 「うん」 「やっぱり未練があるんだ。この身体でどこまでできるか分からないけど」 捨てられなかったユニフォーム。ユースに選ばれたときのユニフォームだってまだ家にある。 四年前のプレイはもう出来ない。リフティングやドリブルだって、以前のようには出来ないだろう。 「椎名に言われたからってこともある。だけど答えは最初から決まっていたんだ」 「私の分まで…ってなんかおかしいか。ええと、真宮君がまたスタジアムでプレイしている姿を見るのを楽しみにしてる!」 「まずは入部届けを出さないとな」 それは夏海が初めて見た千歳の笑顔だった。雑誌に写っているような綺麗な笑顔で。 夏海はこの笑顔を求めていたんだ、と改めて思い出した。 好きという気持ちがあったのかもしれない。だが、今は真宮千歳という人物がまたサッカーをするという喜びが心にいっぱいで。涙が自然と出てきたのも、そのせいであったのだろう。 「うわっ!また俺なんか言ったか!?」 「ううん。嬉しくってつい…」 「じゃあいつか、俺は国立のピッチでプレイして、そんでシュートも決めて、お前にまた泣いてもらおう!」 アハハと声をあげて笑いながら、二人は歩き出す。 夢は叶うものではなく、叶えるものだ。だから千歳もその夢を叶えるために、再びサッカーの道を選んだ。四年前、上を目指していたときとは違う夢を抱き。 好きなことが出来る。 それ以上の幸せはない。 「真宮君。下の名前で呼んでいいかな?」 「俺も呼ばせてもらっていいの?」 二人の間に恋が芽生えたかはまた別の話。 これは、サッカーが好きという共通点で結ばれた二人の話。 The End |