「今更悔やんだって、何も戻ってこないんだよ」

「分かってる。分かってるさ…」

頭の中ではそれが分かっているのに、どうしてこんなにも悔しいのだろう。
いつもそばで笑ってくれていたあいつがいて。
何があっても、何が起きても、自分についてきてくれるあいつがいて。
それなのにどうして。
こんなにも悲しいという時に、あいつは隣で笑っていてくれないのだろうか。


失ってからはじめて、あいつのいてくれた大切さに気付いた。



失われたモノ、戻らないモノ




どうしてこうなってしまったのだろう。
僕らはソニエール監獄に捕らえられたリュウカン先生を助けに来ただけであったのに。
作戦は完璧であった、はずだ。
監獄に忍び込み、地下の牢屋からリュウカン先生を助け出す。そして彼を本拠地までつれて帰るだけ。
今まで沢山の戦いを潜り抜けてきた僕らにとって、それは容易い作戦である。
そしてその作戦の終盤まで差し掛かっていた。無事にリュウカン先生を助け出し、外まであと少しのところである。


ミルイヒ・オッペンハイマーはそこにいた。
彼は剣を抜くことを避け、一つの小瓶を取り出した。その中には得体のしれない何かが入っている。
ミルイヒはそれを掲げ、笑いながらこう言った。

「この胞子は、ですね。人間を食べちゃうんですよ」

今思えば、この時、ミルイヒには隙があったのではないかと思う。
小瓶に気をとられていて、僕らは誰一人として動かなかった。
彼が小瓶を割る直前に彼を倒すことは出来たのではないのかと。
けれどそれも、所詮、今思えばのことだ。
…ただの後悔。
僕らはただ、彼が何かをすると分かっていたのに、それを見ていることしかしなかったのだ。
ミルイヒが小瓶を静かに割り、扉に鍵を閉めて去っていくのを見ていただけ。
彼の残していった胞子が徐々に広がりを見せていく。
前に逃げられないのであれば、後ろに逃げるしかない。
僕はビクトールとフリックに腕を引っ張られ、後ろへと下がった。

そして、バタンと大きな音を立てて扉は閉じられる。

その扉は手動でしか開け閉めをすることが出来ない。さらにそのスイッチは、扉の向こう側。つまり胞子が存在する部屋にあるだけで、僕らの居る方での操作は一切することが出来なかった。


「なんとかするからこっちへ来い!」

ビクトールは言った。
けれどそれはもう叶わない願い。


「扉を開けろ!」

僕は言った。
それも実行できない命令。



はじめて、あいつは、僕の傍から自ら離れた。





ドン!ドン!
扉を叩く音だけがむなしく響く。
扉を開ける、たったそれだけの行為がこんなにも苦しいことだったなんて思いもしなかった。この先にいる大事な人の顔を見ることが出来ないのが辛い。
あなたは今どんな顔をしているのか。どんな思いでいるのか。それすら僕は知ること出来ない。

「開けてくれよ!…頼むから…」

けれど、その声ももう届かない。
扉の向こうにいる者はすでに、声を発することも出来ず、大切な人たちの声を聞くことも出来ない。そんな状態であった。
守りたい、その一心で。
ここで死んでも、自分の信じた彼ならこの戦争を終結させることが出来る、と信じて。
自分の信じる道を進んでくれる、そう信じて。

「結局僕は守られてばかりだ…」

哀しい、けれど涙は流れない。
涙は流さないと誓ったから。泣いてはいけないと知ったから。笑っていなければいけないと悟ったから。
泣いてもいい状況なのかもしれない。しかしもう、そんな感情は持ち合わせていなかった。
僕が泣いたら、迷惑をかけてしまうから。
僕が泣いたら、皆が哀しむから。
哀しいけれど、悔しいけれど、何も出来なくて。
自らが勝手に立てた信念がために、大事な人のために涙を流すことも出来ない。

彼は僕のことを誇り、と言った。
だけど本当はその逆だ。僕にとって、彼が傍にいてくれたという事実よりも、彼の傍にいれたことが誇り。―――自分勝手な考えだけど。
何でも出来て、いつでも笑って、傍にいてくれた。
母さんよりも、父さんよりも、クレオよりも、…誰よりも傍にいてくれた。
一人で居る時に優しく笑いかけてくれたのはいつも彼だった。
家族じゃない家族だった。
血を繋がった人間だけを家族と云うのではない。
そんな彼は、誇りだった。
誰にでも自慢が出来る人。
胸を張って紹介できる人であった。



「お前のせいじゃないから」

誰かが言った。しかしその言葉も、片耳から入り片耳から抜けていく。
誰が言ったかすら、何を言ったのかすら、どうでもよかった。
なんで助けてあげられない。
なんで助けようとしない。

「……だけなのに」

「え?」

「傍にいて欲しかっただけなのに!戦いなんかに参加する必要はなかったんだ!
こんな思いをするぐらいなら、解放軍なんて「やめるんだ」」

誰かが言葉を遮った。

「そんなことしても何にもならない。ただ紋章に飲まれるだけだよ?」

ルック、だった。
それだけは分かった。紋章持ちと知っている数少ない人物の一人だったから。
唯一話せる親友、だったから。
それは、僕が一方的に思っているだけなのかもしれないけれど。
扉を叩き、傷をつけていた右手をルックは自分の精一杯の力で掴む。
魔力を持つもの、さらに真の紋章持ちにしか分からないほどの微力な魔力がレキの右手に渦巻いていた。

「リーダーをやめてどうする。彼の生命を無駄にするのかい?
何のために彼が死んでいったのか考えてみなよ。それともまた紋章のせいにする気?」

「…っ」

その言葉に僕は抵抗することも出来なかった。僕は俯き、こぶしを握り締め、歯を食いしばる。なんて惨め姿なんだろう。
魔力を渦巻いていた紋章が落ち着きを取り戻すと共に、僕の気持ちも落ち着きをみせていた。まるで紋章に操られていたかのように、感情の高まりは嘘のようになくなった。
そして周りも静かになった。
誰も、何も喋らなかった。いや、喋れなかったのだろう。
扉の向こうにはもう、誰も居ないと悟っていたからだ。
ただ、そこに哀しみが存在しているのだけが、僕には感じ取れるのだった。






そして今、僕は本拠地の屋上で膝を抱えて座っている。
あの後のことはあまりよく覚えていない。
マッシュが来て、僕らは助け出された。たった一人の人物を除いて。
扉の向こうには彼が愛用していたマントと武器が落ちていたことだけは、今でもはっきりと覚えている。でも、それを拾うことが出来なかった。彼がもう居ないということを実感してしまうと思ったから。
風のなかったそこに、一筋の風が吹いた。

「…泣けないんだ。こんなにも悲しいのに」

「笑うことすら出来ない君が、涙なんて流せるわけがない」

「そう、だね…」

涙を流さないと誓った。
その誓いは僕の心を蝕み、ただ苦しめるだけの結果となっている。
苦しくて苦しくて苦しくて。

だけど涙を流したら、楽になるとも思えなくて。
むしろそれは辛い行為で。

「今更悔やんだって、戻ってこないんだよ」

「分かってる。分かってるさ…」

その“戻ってこない”は何に対してか。
あいつに対してなのか、
それとも僕の失われた感情についてなのか。
そんなのどちらでも良かった。
どちらももう帰ってこないものなのだから。
いくら手を伸ばして、足掻いても、帰ってこないものなのだから。



こうやって、僕は全てを失っていく。





The End